母とのお別れ

17日に最愛の母が亡くなりました。

17日に急変し、夕方4時ごろに姉から「今夜いっぱいみたい」という
連絡を受け、即、あらかじめ、いつでも行けるようにと用意していた
喪服の着物や荷物を車に積んで、突然、雷まで鳴り始めた空模様に不吉な
思いを感じながら、
真っ赤な太陽が沈みゆく西に向かいひたすら高速を走りました。
どうぞ間に合いますように。。。。と、真っ赤な太陽が涙で滲んでいました。

トイレ休憩は、たった一回。。。。滋賀県あたりで姉から着信があり
、「8時10分に亡くなりました」とのことでした。

最後を看取ることができずとても残念でした。

日付が変わる頃、実家に戻ってきて安らかに眠っている母に会いました。
凛としてとてもきれいな顔でした。

翌日、納棺までに、商店街の町内会の皆さんが次々お悔やみにいらして、
口々に
「この町内で一番の働きものだったな」「明るくて優しいいい人だった」
などなど涙を流しながら、母との思い出を語っていました。

翌日
18,19日の通夜告別式には、たくさんの人たちが来てくださり
母の生前の、誠実で健気でまっすぐな生き方に改めて頭が下がる思いでした。

とても真面目なのに、とても天然でおかしくて子どものように純粋な人でした。

喪主である義兄の涙ながらの弔辞に、母の尊敬できる生きざまをみた
気がしました。
「どんなに大変な時も決して愚痴を言わない尊敬できる母でした。」との
義兄の言葉が嬉しかった。

私は、母が、人の悪口を言っているのを聞いたことがありません。

そして、私は、母に叱られた記憶があまりありません。

中学の頃、姉と共通だった現国の先生に「あなたのお母さんは、どういう
育て方をしたのか、本当に姉さんもあなたも、素直でまっすぐに育っているね」と言われたことがあります。

小さな体でちょこちょこよく動き、いつも真面目で面白くて働き者の母でした。

これからもっと親孝行をいっぱいしてあげたかったのに、それが残念です。

ただ、私の転勤先に妹夫婦や孫たちと一緒に遊びに来て、もう20年以上前
新潟の妙高笹ヶ峰
「死ぬ前にこんな山でテントの中で寝たかった」というので
パパさんと、2時間かけて山を下り自宅にあるテントやシュラフをもってきて
念願のキャンプをしたこと。。。

また静岡では、富士山が見たいというので日本平や三保ノ松原に連れて行ってあげたこと。。。

二人で出かけた香嵐渓紅葉狩りでバスガイドさんが車内でマイクでみんなに
「今日はいい天気でよかったですね」というと
母一人で、でかい声で「ほんまにええ天気でよかったですわ」といちいち
声かけに素直に返事してる天然ぶりが今とても懐かしく思い出されます。。。。

どうぞ向こうに行ってパパさんに会えたら
「○○ちゃんはひとり元気に頑張ってるからね」て、
伝えてちょうだいませませ。。。。。

                              合掌